昭和41年04月09日 朝の御理解



 本当の信心、真の信心、本当の信心とか真の信心とかというのは、その本当の信心とはどういうような信心をいうのだろうかと。真の信心とはどういうような信心を持って真の信心というのだろう。本当のおかげを頂きたいためには、やはり本当の信心をしなければならん。そこでその本当の信心とは、どういうような信心かと。
 私が思いますのに本当の信心とは、どういうような場合でも神様を信じ、動かない、狂わない信心だと思う。本当の信心とは、どんな場合でも狂わん信心。ですからいうならもうそれ以外の信心は、これは本当な信心じゃないと。そこでお互いが本当の信心を目指して、信心をさせて頂くのである。
 ね、そこをまあ、繰り返し繰り返し、はぁなるほど自分の信心は本なもんじゃないなと、本なもんじゃないなと、すぐそこんところを本なものではない、そこんところを一つ分からせてもらって、いよいよ本当のものへ本当のものへと、ま、本当のものを目指しての信心。ね、なら私の信心が本当のものかというと、まだ本当のものと、なら、本当のものとはいえない。
神様の方からご覧になったら、まだ本なもんじゃないかもしれんけれども、結局私が本当のものを目指す。本当な信心を目指すと。所謂真の信心を本気で目指す、ということがだから本当の信心だということなるのじゃないでしょうか。自分のは本なもんじゃないなと言うような場合に分からしてもらう。そしてその本当の信心を目指しての信心。誰だって始めから本当のことができるはずありません。
 そこは稽古です。ね、もう自分の信心は本なもんじゃないから、自分もうはだめだと、いうところにはもう本当の信心、いわゆる本当のおかげということも頂かれんなりしまわれなければならん。ね、そんためには一つ本当な信心修行をさしてもらわにゃいかん。やっぱり本当の信心修行がでけんといかん。本当の信心修行がでけんと、いよいよの時に迷いがおこる。いよいよの時に動揺する。
 四神様、金光、教祖の神様の御晩年の頃にお参りをしてくる氏子に繰り返し仰られたという信心に身が入ってくると、神様のお試しがありますぞ。ということ。いわいる本当の信心に段々なりかかってくるちゅうわけ、ね、信心に身がいってくる、信心の有難さが少し分かってくる。おかげの有難さということよりも信心の有難さが身に段々ついてくる。神様ちゃ有難いお方だ、信心ちゃあ有難いもんじゃということが分かってくる、と、いわゆるそういうのが信心に身がいってくるのでしょう。
 信心に身がいってくると神様のお試しがありますぞと、こう仰とる。ね。ですからどのようなお試しを受けましても、ね、そのお試しを見事に受け抜いていくという信心が、私は実のある信心であり本当の信心だと私は思う。自分の思うようにならんともう暗い心、いやまあ、暗い心ぐらいなこつならいいけれども、神様のまるっきり力がないような思い方をする。ね、そりゃ暗い心も起きます。ね、
 けれどもその底に有難いものを頂かせてもらう信心。いうなら神様がこうして本当のものを分らせて下さろうとしておる。神様がこうして本当な信心を分からせてくださろうとする、その御神意を分からしてもらおうという信心。またあの教祖の神様はこの様々な、このような信心の大事なそこのポイントポイントをですね、いろいろの言葉で表現しておられますですね。その中に、さびがえと言う言葉を使っておられます。
 これなんかは私は、本当の信心を頂かしてもらいよらんとおさびがえになるとこういう。ね、おさびがえ、さびられる。昔はあのミイっちゆうものがございましたですね、お百姓さんが使われるミイていうのが。あれでこうやってさびられるとです、実のあるのだけは残って空はとんでしまうんです。ね。とうみて言うですが、こう強い風を送りますと空はばぁと外にでてしまう実だけが下へ落ちる。
 信心させて頂いておりますとですね。お試しもある。少し信心に身がいって来るとと仰るが、信心が少し分かってくるようになると、もうお試しがある。勉強させて頂いておると、だんだんそのひときり、ひときりの切り目きり目に、試験というものがあって、実際の学問が、身に付いたかどうかを、先生が試されるように、信心が段々分かったような顔をしておるがどのくらい分かっただろうかと、本当の信心が分かっただろうかと言う事を神様が、試して下さる。
 それを試とも知らずに気付かずに、ぐらついたり、迷うたり、信心を疎かにしてしまうようなことではおかげにならん。いわいる本当のおかげにならん。神様がどのような例えばまぁおさびがえにあいましてもです、その実がある信心をさして頂いておるとのこるです。先日秋永先生が、そう、いつかの壮年部会の時でしたかね。申しておりました。本当にあの椛目の信心がこうしておかげを頂くようになって丸15年間、本当に15年間の間にもうそれこそ、みんなが通るとこ通らして頂いた。
 椛目の強みというのは、15年間または、10年間と信心が続け貫かれて、しかも家族をあげての信心に、みんながなっていきよるということは、こりゃまぁちょっと、私もこの例みません。他所の教会でも、随分熱心な信者さんがあるけれども。主人の信心するけども、家内は信心せんと言った様な、ところが非情に多いんです。ところが、椛目の場合もう10年と、信心を続けておるほどしの人ならばです、家族挙げて、信心しておるということですよね。
 というのが有難い。そかも10何年の間に間におかげばぁっかり頂いておるから皆がついてくるかというのではなくてです。様々なこれがお試しでもあろうかと、これがおさびがえの時でもあったろうかというようなときにです、やはり残っていく、それに皆が信心ちゃ尊いものだなというふうに付いてくるというのが一番多いのです。椛目のまぁ強みというならです、そういう様々な中を今日まで辛抱し貫かせて頂いて残っておる人達がです、現在ここにまぁいうならここ御広前いっぱいあるということがです、椛目のいうなら底力だということをいってます。
こりゃまぁ余談ですけれども、先日ここで二十何ヵ所の教会が二日市の教会で会合があった。そのときに教務所の次長先生に会わなければならない用件がでけて、秋永先生があちらへ参りました。二日市の教会に、そのとき次長に話してからの中に、今度の御本部参拝を椛目は団体では行動しないことになって、私、学院行きをする、それにもならついて参ることなっとったからもう一応断ってしまった。
 団体行きを、それが十三日であるということやらです、ね、いわば十月にじゃない、四月にお参りするも三月の月末にお参りするもんですから、その今度は団体行動を取らない、椛目が参らないということになった。椛目が例えばあーまぁ五十名あまりあてしてあったのが、がばっと参らんごとなったもんですから、もう大変なんですよ。ね、別にこちらは申し込んでおったわけでわないけれども、そのいつもそれだけは椛目から参るもんだから当てしてあったわけなんですよ。
 だから四千円の五十名、すっと二十万円というお金がですね、どっからか出さな、捻出しなならなくなった。その時にです、その椛目が今度参らんからという話しが出た時にです、二日市の先生がおっしゃったそうですね。そらそうじゃろうと。参られんとがほんなこつて、あちらにあれだけの御造営がありよるとじゃもんじゃから、そりゃあ信者も大変なことだからお参りができんとがほんなこつ、というてその言われたという話を次長がです、秋永先生にしたそうです。
 もちろん秋永先生がその心の中でまぁ可笑しかったとこう言うわけです、ね。参ろうと思えばいつでも参ら…椛目…それこそだぁれも椛目の場合は進めますまいが。ちょい(と)御本部にお参りしなさい、ああたもお参りしなさい、というようなことはないです。よそあたりでは大変な勧誘があるです。ここ私は私がお参りをするといやぁ、私に30人40人は必ず付いて来るです。
 今度なんかあのう私、話し合うとるのかと思う昨日一昨日、文男さんが参りましたから、今度菊栄会はいっちょん参らんがあんたどんは話し合うとるとじゃあるめ。いいえみんな参るとですよち言う。参るとすると締切ってしもうとるじゃん、あらそげなこつですかち、ですから30何名あるとに菊栄会が参りゃ、やっぱり40名余りお参りするとですたい。けれどもそれはもう、神様のご都合じゃろうばい。
 13日会もあるし、ね、あのー御大祭の準備もあんたどんが中心にならなきゃできんから、あんたどんが残ってから13日会の御用やら大祭のご準備の方ばいっちょ受け持ってくれというてまぁ、申しましたんですけれどもですたいね。それとこれとは違うということ。椛目の方達の考え方は。もう親先生が行かれるならば、たとえどういうことであっても、まぁそれに一緒に行動するというような信心がいつの間にかできてきた。いつの間にかそういう信心が言わば段々でけてきたということだ。ね、
 それでこりゃ椛目のいわば底力ばみせないけまっせんばいちゆうてから、秋永先生がそれば話合があってですねぇ。そこにポスターが出とりますでしょ。今度の6月の記念祭に毎年ですけれども九州中から400名の団体を募るんです。これはあー1万5千円かかるんですね。一応御本部の御大祭を頂くために御本部に参ります。帰りはどこからですかね玉島から船で参ります。もうこれはもう一等の船であり一等の汽車です。
 もうこれがこれ、が最後のあの以前の安い値段で、お参りするものだそうですがね。まあ余談ですけれども、まぁですから(?)がゆうておられた。これからはもう、椛目もあの教会並に取り扱うから、まいっちょどうでんこうでん参ってくれっち言って、そのポスター何枚もことづけられたと。そん時その、若先生が言よりますじゃん。椛目んもんなその教会並に扱こうてもろうた。うち先生ば先生なみに他所んもんが扱うと、それには弱いというわけですね。
 確かにそういうところが椛目の人はありますもんね。うん、ですからやはりこの椛目の、ま、例えばああ言うような大変なことに取り組んでおりながらです、やっぱり御本部参拝は当たり前にある。いや当たり前どころか今度のなら普通とは何倍もかかるような、その変わり4日間ですもんね。もう、何もかも含めて1万5千円ですよね。そういうようなこの団体参拝にも椛目からちぃっとお参りするようにしましょう、ちゆって、もう本当にいちょ椛目の底力を見せとかないけん。
 まぁ見せるためにいうことはいらんのですけれどもです、そういうようなものがいつの間にか椛目にゃでけてきておるということ。いや、でけてきておるけれども、それが実際のところをです、実際のところをまた検討させて頂くと、いやいやまぁだまぁだ本当なもんじゃないなということ。昨日御造営のことの再検討がございましたが、こりゃあやっぱりどして、こりゃまぁちょっとそのオーバーなあー表現でしょうけれどもです、ね、これだけのことが立派にでけといきよりますからですね。
 先日あすこに3階に来た人が、もうこれは九州にまた一つ名物がでけました。と言うてそのまぁいうならげきをして帰ったっちいうわけなんですよね。それこそ今、今度昨日も委員長、それから設計の全部打ち合わせを致しましてですね、もうほっとにそりゃもう本当にミスといっておったことが、かえっておかげというようなことになっていって、それが立派なことになっていきよる。
 もちろんそりゃただになるわけじゃありませんですけれどもです、こりゃあやっぱり世間でいうとるように椛目の御広前は一億円というて、そのいいよる人があるげなが、ほんなこてこれ一億円こげなふうならかかりますばいち、というくらいにです、いわゆる完璧なものへ完璧なものへとしてありがおかげを頂いていきよるということ。ね、ところがさぁ一億万円と掛声聞いただけで、とてもそんなどがしこお供えせなんじゃろうかわからんちゅうようなことで、揺るぐ人がないとも限らんとですからね。
 そうですよ。先日からあのなにか判を押さんならんことがあったら、もうそんなら判おさんならんなら、椛目には参らんちゅう人がおったっちゅう。椛目にでもそうですから。ね、そういうときが私は神様のおさびがえというのじゃなかろうかとこう思うんです。ね、実のある者だけをです、残しておこうとこうされる。人間的に本当に底力を出し入れるところの信心というものがです、ね、日頃はそうでもないごたるけれども、いよいよのときに本当に底力の出せれる信心。
 そういう信心を私は実のある信心というのではなかろうかとこう思う。実のある信心なのだ。ね、その私本当の信心をさしてもらわなければ、私本当のおかげはいつまでたっても現われんと思う。昨日でした。昨日でしたか、一昨日でしたか、久保山先生からお届けがあった。皆さん御承知のようにあちらの孫さんが今度、本当に自他共に許しておった。もう有名校にあちらの子が通らんはずはないことにきま、もう決めとった。
 私立校んでも通っとったけれども、もうそげなつには大体行こうちは思っとらんもんだから入学の手続きもとってなかった。ところが二ヵ所受けたら二ヶ所ともみごとに不合格だった。いくところがなくなった。ね、そのことについてそのうちょうど東京の方の娘が行っておりますから、娘の方からあのうお届けがあっておりましたから、今後のことについてからいろいろお伺いをされましたから、私がここに頂きますことが「実業」ということを頂きました。
 実際の業ということ、実の業ということ、ね、私はその意味がよく分からなかった。実業という。ね、東京の和子さんから手紙が参りました。ね、不合格だったという通知を受けて、受けたときにです、もうそれこそもー本当にもー予想外も予想外だったもんですからそれこそ一人娘ですから、ね。それに親の期待をかけられておるのですから、もうそれこそがっかり力落としで、それこそ声上げて泣きました。
 けれども段々本当にもうその情けないと思うて声上げて泣きよりましたけれども、その泣きよりましたのが、段々段々最後には親先生ありがとうございます、というその内容に変わって参りましたとこう言う。私ども一家の者が、いや私が、本当に私ども親子の上に神様がこうしてまで分からしてくださろうとしておることがあるんだと、泣きながらそれを気付かせて頂くときに親先生ありがとうございますということになって参りましたという、もうこんなに分厚いその時の実感を手紙にして、ここに寄こしております。
 そして、おじいさんの久保山先生を通してからです、不合格であったということ、ですからこれからの、娘順子と申しますが、順子の生き方についてから御神意をお伺いしてくれと。これはそのことお礼にというて、そのうご造営費のお供えも一緒に送って参っておりました。それが昨日、一昨日でした。そんときに実業ということを頂いた。そしたら、どうでしょう、昨日あの高校、南築高校が、合格という通知がまいりました。
 私はそのこと夕べは申しましたけれどもですたい、本当にもう思いがけなくおかげを頂きました。おかげで合格のおかげを頂きました。もう本当におしかばなかごつなってから御造営のお供えをしたっちゃもうおそかと私が…。ね、普通からいやあ本当に情けないことである。これだけ神様に御すがりしとるのにというようなそういう事柄の中にでもです、ね、そういう事柄の中にでも御神意を悟らせてもろうてです。
 神様有難うございます、親先生有難うございますといえれる信心、それも口で言うだけじゃない、実際の上に形に現わされて、私はおかげの頂けれるような信心をははぁこういう信心が本当の修行だな私は分からせて頂いた。ははぁ、実業とはこういう信心だと。ね、この実業なしにはです、今日私が言うところのいわばいよいよおさびがえになるときに必ず落ちる。お試しを受けたときに必ず落第すると。ね、ために常日頃のしっかりした信心が必要であるということがわかるでしょうが。
 もうあきらめとったのがでけました。おかげでありがとうございましたというて御礼に出てくるのはこりゃもう当たり前ですけれども、それ前にです、お礼に出てこれるという信心なんですよ、いうならば。本気で、ね。そのことを本当に改まってお礼の言えれる信心です。泣きながら叩かれれば、痛いことは痛い。ね、痛いことは痛いんだけれどもです、ね、痛いけれどもそのそこから湧いてくるものは、親先生有難うございます、というそれなんだ、それを、そういう、修行です。
 そういう修行をもって私は、実業だということ。本当の行だと言う事。本当な信心の道すがらというものは、そういう実業が繰り返されてこそ本当な信心を目指しておるものだということがいえれる。ね、どんなに実が、いわばあるようにあっても、それがいわば、しいら信心であってはならんと。総代だから幹部だからというてならかならずしも、いうなら実際の実業が出けておるかというたらそうではない。
 ただ、判いっちょ押さんならんということをそのあれを聞いただけでも、いわばお参りを止ようかちゅうような人があるんだから。椛目にそんな人はおらんごたるけれどもおるんですから。ね、いや例えばです、心の中にもう思うとらもうそれはほんまもんじゃないということ。例えばなら椛目の御造営がです、よし一億円かかったところで神様がなさるのだからそういう御用でも本気で御使いまわし頂きたいと。
 本当の御用御用の立つ信心になりたい。お役に立ちたい立ちたいというような念願がです、むしろ、そういう大きな問題に直面すればするほどです、その信心のいわば勢いというのは燃えてくるような信心をもって私は本当の信心といえるのじゃなかろうか。今日は私は実業ということをいうためにえらい回りくどいいろんなお話を致しました。実業とは、本当の行、私どもが修行させて頂いておるけれども、毎日こう修行させて頂いておるけれども、それがはたして実業かどうかということなのだ。
 その実業を実際に神様が行として受け取ってくださるだけの行をです、私どもがさして頂いておらんとです、ね、おさびがえのときにさびられる。お試しの時に落第する。ね、どのようなことが起こっても驚かんで済む。どのような場合でもです、神様を信ずる力に微動だも動かない。微動だもしないと。ね、そういう私は信心を身に段々付けていかなければいけない。
 そういう信心こそ私は、実業に対するところの、おかげというのは、御神徳であり、その御神徳こそが、ね、徳のない間は心配をする。身に徳を受ければれば心配はない、という心配のないこの世での生活。どのような場合でも心配のない生活。しかも、徳というものはみてるということがない。しかもあの世にも持っていければこの世にも残しておけるというようなもの、それは実業以外からは、得られないと私は思う。
 何十年お参りをしておるから受けられるというものではない。一つ実業を本当の行をさしてもらわないかん。本当の行というのはです、だから形だけがものすごい、ね人の身震いするような、いうなら修行させて頂いておるからそれが実業かというとそうじゃない。ね、実業と只今まぁ一例をもっていうならば高松和子さんが場合の行をもって実業と私は頂かなければならんだろうとこう思う。
 その行がです、繰り返されていくうちにです、ね、いよいよ確固たる信念も生まれてくる。ね、お徳も頂けてくる。そこに信心を身に徳を受ければ心配はないというおかげを頂かれると思うのですよね。どうぞ、今日の御理解は、実業というところを申しましたが、ね、いつも、心行とか、表行とかという行をことを申します。だから心行の中にも表行の中にも実業があるということですたいね。
   どうぞ。